昭和47年09月13日 朝の御理解
御理解 第64節
「此方は参ってたずねる所がなかった。氏子はおかげを受けて遠路のところを参って来るが、信心して徳を受けて、身しのぎをするようになれ。」
信心と言えば、悲しい時の神頼み的なところから始まって、信心好きだと言うても、何々様、何々神社というような所に、お参りをすること位で、それで信心は、あちらは、なかなか信心がよう出来なさると言うて、手厚い信心という風にされておった時代。信心というのは、おかげを受ける事の為に、信心があるという風に、一般の人達の考え方、そういう時代。かと言うと、そんなら、仏教なんかの、信心をする人達は、自分自身の心が救われる。自分自身が助かる。それを極楽だという風に説いた。
お釈迦様の思索の中から生れた、言うなら修養にちょっとましな感じの宗教。それが、いっぱしの信心者と言われた。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を言いよると、自分の心の中に、例えば腹が立っておったのでも静まる。心配な事であっても段々不安がなくなる。そしてそこに喜ばせて頂くという信心。これが仏教です。いわゆる自分自身の心が助かるというのですね。また素晴らしい教えがあります。
どんなにその人が悪い人であろうが、悪人正機ですか自覚、こういう私のような悪い人間でも、私のような悪人でも、南無阿弥陀仏と唱えさせてもろうて、おすがりをすれば、極楽行きが出来るんだというような信心です。他にそういう以外の信心は、なかったように思う。そういう時代にそういう時に、教祖金光大神の教えられた事は、どういう事かと言うと。私は、本当の意味で、教祖の神様は、宗教革命をなさったんだと思うですね。その元を作られたんだと思うですね。
参って尋ねられると、成程、信心がお好きであったから、よくお参りになられた。どこどこのお宮様、どこどこのお寺様。果ては、四国の八十八ヶ所巡り迄なさった。言うなら、伊勢参拝等もなさった。それも、真心いっぱいの、実意丁寧をもって、信心をなさった。それは何処までも、おかげを受けるという事から、一歩も出ていなかった。成程自分が体がお弱かったから、どうでも健康のおかげを頂かなければならんというのが、自然、信心好きにしたのかも分からない。
けれども段々難儀な事が重なって、そこに教祖様の信心の、純粋な素直さと言うか、実意丁寧さが、いよいよ神様に受けられていくうちにです。尋ねる所がなかったと御自身てもおっしゃっておられるように、教祖金光大神の独創的なお心と言うか、御信心と言うか、教祖のそういう心の上に表れなさった神様。
その神様が教祖金光大神に神頼み、世間になんぼうも難儀な氏子あり、取次助けてやってくれないかという神頼みがあって、それを素直にお受けになられて、その神様から色々と御教えを受けられ、お指図を受けられて、金光教が生れたその御教えと言うか、そのお指図というのはどういう事であったかと言うと。今迄は神様と言や、おかげを頂く事の為に、参ったり拝んだりするんだと。言うなら悲しい時の神頼み的な信心。かたや仏教の方で参りますと言うならば、南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏を唱えればです。
自分自身が助かられる極楽行きが出来る。それは過去にどういう罪業のある人でも、南無阿弥陀仏という信仰に、入らせて頂けば、誰でも助かる事が出来るんだと説いたから。当時の新興宗教であるところの、浄土宗とか浄土真宗なんかの信心が、全国的に広がった。成程南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏を言よると、心が助かってくるという事実があった。これは、私の小さい時のお話の中にもありますように。どげん腹ん立ったっちゃ、人から一つ位くらせられたっちゃ、腹を立てちゃならんぞと。
腹が立っても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言いよると腹の立っとはようなる。私は、本当にそれを、地を持って、子供の時に行じさせて頂いたら、もうどこから湧くか分からん程に感動を頂いた。と、いうように、子供でもです。そう教えられて、それを実行するところにです。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と言いよるうちに、相手を叩きたいごとある感情が、治まってです。しかも痛かったからとか、苦しかったからの涙ではなくて、ハッキリ何が何か分からん涙がこぼれたという事実です。
それで、痛いとが治ったというようなおかげにはならない。ただ自分の心が、そこに助かる。まぁ言うならば、それを極楽と言った訳ですね、分かりやすく言うと。それは極楽は極楽ですよね。例えば、同じ仏教でも、禅宗あたりの、座禅を組んで、心の中に悟りを開くと言うても、悟りが開けた途端に、自分の心が助かっておる訳です。難儀難儀、難儀とばっかり思うておった難儀がです。我情我欲の為に、その難儀があるんだと、悟れた時に、自分の心はもう助かった。
ある意味で、やっぱり思索であり、思索と修行とが伴うたと言ったような感じです。お釈迦様が、菩提樹の下で、永年お座りになって、そして悟りを開かれたという訳です。「よしあしを捨てて起き上がり小法師哉」というような意味の助かりです。もう善し悪しも、あなた任せである。そこには心が助かっておる。ところがそのよしあしを捨てるという事に、大変な難行苦行があった訳ですそういう信心。
そこからです。例えば教祖の神様は、そういう、今迄通り、やっぱり拝む事も参る事も、又は自分の心の助かる事も、合わせて頂きながら、今迄言ってきた事の人の、それこそ晴天霹靂というようなです。素晴らしいおかげの受けられる道、いや御徳の受けられる道、天地の大徳を受けれる道。しかもその大徳には、無尽蔵に限りなく、おかげが伴うてくるという道。
私は思いますともう本当に、私は革命だと思うですね宗教の。ところが教祖金光大神が神様から教えられた、金光教の信心と言うのは、もう何処までも、超積極的なものであったという事。だから見方によると、非常に消極的に見えるという事。例えばこの畳半畳に座り込んだっきりで、難儀な氏子を取次ごうというのですから。これなんかもやはり金光教の独特な事だと思うですね。ですから只座っとるだけですから、非常に消極的なようにある。世の中に難儀な氏子が沢山ある。
それを自分が、歩いて行って、お導きをしたり話をして聞かせたり、街頭に立って演説をする。法話を説くといった事ではなかったんです。救いを求めてやって来る、一人一人の氏子を、ねんごろに取次がれた。そして神様の心を説かれ、また氏子の願いを取次いで、おかげを受けていくと言うのですから。実に消極的に見える訳です。けれども私が超積極的だと言うのはです。
そんならここに座らせて頂いたが最後です。人が救いを求めてやって来ようが来まいが、お供えがあろうがあるまいが、もう神様に命を捧げての、命を預けての結界奉仕、神前奉仕というのですから。是はもう超積極的ですね。是はもう米が少なくなったから、托鉢をして回ってというのが仏教でしたね。けれどもここに人が救いを求めてやって来なければ、その代りにそれこそ絶対取次ぎ助けられるという、絶対信を持ってお取次をなさった訳です。そして願う氏子には、おかげを授けというようにです。
まず神様の実在をおかげによって分からせて、そしてその神様のお心を愈々説かれた。言うならば願う氏子におかげを授け、理解申して聞かすという事を、その後になさった。それが、今の金光教の各教会の上にも、合楽の上にもそういう風におかげを頂いておる訳であります。信心して徳を受けて身凌ぎをするようになれと。そしてそんなら説かれるところは、どういう事かと言うと。人間は神様の御信用御神徳を頂かなければ、本当の幸せにはなれないぞと説かれた。それは心が助かる。
一生懸命拝むとも拝まんならん。御祈念力も頂かにゃならんそれは今迄と同じ事。一生懸命拝んだ時代と同じ事。お話を頂くとああそうだと、心の中に悟りが開けて今迄心の中が、真暗であったのが一瞬にして明るくなる程しのおかげか受けられる。ここ迄は同じであったけれどもそこからです。おかげが伴うてくると言うのが、教祖が説かれた信心だと思うですね。だからその辺のところがです。
そんなら仏教によってよしあしを捨てて起き上がり小法師哉というように、よしあしを捨てる事によって、自分のそこに起き上がっておれれる、助かっておれれる。その心の状態に何故御利益が伴わなかったか、いやむしろその御利益が伴う事は、大変雑宗だと下作なという意味の事を言った。これでは天地の親神様はお喜びにならない。自分の心が明るうなり、自分の心が有難うならせて頂いたらです。それに願わんでも頼まんでも、物事が自然に成就してくる。自然に財産も出来てくる。
自然に健康にもなってくる。自然に子供の出来もよくなってきて、年勝り代勝りのおかげが受けられるという道を、教祖は打ち立てられたという事は、もう正しく宗教革命だと思うですね。そこでです信心して徳を受けて、身凌ぎをするような信心とは、どういうところに、その願目を置かれたかと言うと。生神金光大神天地金乃神一心に願え、おかげは和賀心にあり、と説かれた訳です。もう和賀心そのものが助かっておる心なのです。その和賀心におかげはあると。もうそれは、頼んだ事だけでない。
人間が幸福にならなければならない一切の条件を、その中には備えておる。そのおかげという事の中には。だから金光教の信心は、今迄は尋ねる所がなかったからと、教祖がおっしゃっておられるように、教祖御出現以来そうした信心を極めようとすれば、どれだけでも極めてゆけれる道を、教祖は教えられた。それをこういう今金光教では教典と言っている御教えを、紐説かせて頂くと、それが分かるようになっておるのですけれども。それを浅く頂いたら、分からない。
けれども、合楽の場合は、二十年間、この事を説き続けさせて頂いて、まぁだまぁだ説き明かしとらんと思う位です。まだ、中途半端なところだけれど、私は、おかげを受けておる。和賀心というものは、完璧な和賀心とは頂けんでも、もう確かに、おかげは和賀心にありという事を確信して、どうでも、そういう心をです。あらゆる事柄の中から、その和賀心を追求して行こう。求めて行こう。
そういう心にならせて下さいと祈り、願わせて頂きながら、中途半端の和賀心にも関わらず、神様のおかげを下さるという事からみるとです。成程、人間は和賀心という事を、目指す事によって、人間の真の幸せがあるんだと分からせてもろうて。姿勢をその方へ向けたら、もう既におかげの方が追いかけてきとるちいう事です。こういう説くだけでなくて事実です。そういうおかげの頂かれる道を、教祖金光大神は、百十年前に打ち立てられた。もうその事が既に宗教革命だと思うです。
けれどもそんならあらゆる宗教の悪口を言うたり、あらゆる宗教の足元を見るといったような、事をしてこれはつまらん。これはいけないという風な言い方をなさらずにです。それとてもやはり天地金乃神そういう宗教者でもです、天地金乃神様の氏子であるとしてです。当時○○教、○○派の事を、お広前に参って来た信者が、悪口を言うておった。ところが、教祖の神様が、大変その事を戒めておられます。私が釈迦もキリストも天地金乃神様の氏子ぞという訳なんです。
その子供の事を悪く言われて、親が、喜ぶかと言う意味の事をおっしゃったという事です。というようにです、もう排他的なものでない訳です。何処までも真を求め、何処までも真の信心を求めてやって来る。そういう人達が、一人が助かる事によって十人。十人が助かる事によって百人の者が助かっていく、その事を願われるだけであって、こちらから積極的に、金光様が、お出ましになって、道を説いて回られるという事ではなかった。それを私は、今日は、超積極的だという風に思う。
だから金光教の信心がです。まあ例えて言うならば、夏の日にバーッと広がるカボチャのような訳にはいかんという事。しかもそういう素晴らしいものですからです。広がりよるかと思うと枯れ、広がりよるかと思うと枯れするような、向きすらあるという事です。これはメロンのような高級な果物やらが、沢山並んで、大変作り難いのと同じです。野菊のようなものだったら、雑草のように生えますけれども。
よい種類の菊になればなるほど、例えば、都わすれという菊なんかはもう、植えても植えても、根が絶えるそうですね。よっぽど手入れが良くなからんと。金光教の場合は、だから、私共が、金光大神のお手代りをさせて頂く者が、よっぽど手入れをようさせて貰うてです。自分自身がおかげを頂いていかなければです。もう崩れかかってくる。もう枯れかかって来て、根がなくなるという事にすらなりかねない程しに、金光教の信心は、素晴らしい訳なんです。
素晴らしいからこそ、パーッと広がるといった様な事はないんです。だから本当に金光教の信心を頂く者が、その自覚に立って本当に、まず私が助からなければ、まず私がおかげを頂かなければという事にならなければならないかという事が分かりますね。いよいよ信心して徳を受けて、身凌ぎが出来るほどしの信心を頂かなければならないという事になる。その徳を受けていくところの願目を、天地書附に置かれた訳です。
そこでここでは神様のお心に対して、和賀心時代を創るという、天地金乃神様の願いであるその願いに応えて、手にもならして貰おう、足にもならせて頂こうという運動が、ささやかながら、合楽に起った訳です。ですから皆さんは和賀心時代を創る運動員だとしての自覚を持ってまず私自身が、その和賀心を目指していくところの、おかげを受けなければならないという事になるのです。昨夜の御祈念は上野先生が当番でした。御祈念が終ってから、御理解を致しておりますのをここから聞かせて頂いて。
本当に、精進という事は素晴らしい。一生懸命精進しておる自分の事を話しておりました。例えば人から腹の立つような事を言われる。頭にカチッとくるような事がある。ああこんな事じゃいかん、こんなこつじゃいかんと思うて、一生懸命和賀心にならせて頂く事を精進させてもらう。それが二時間かかる事もあれば、三時間かかる事もある。半日かかる事もある。それが何日も何日も続く事もある。それでもやはり、和賀心を目指しておる事だけは事実である。非常に難しい。
それはそうですよね。お互いの持っておる業と言うか、めぐりと言った物がです。それと反対の働きを、心の中で起こしてくるのですから。もうこれだけは堪えられんちいうような事になってくる訳です。それでもそんなこつじゃいかん、そんな事じゃいかんと、心に言い聞かせながら、和賀心を願っていく、目指していくというのです。私はその御理解を、ここから頂かせて頂きながら、本当に一生懸命精進してるという事が、有難いなと思うた。皆さんもその通りです。
そこで私は、昨日こんな事を皆さんに聞いて頂いた。本気で和賀心になろう、和賀心にならせて頂かにゃと言う精進。そりゃ素晴らしい事だけれども。その和賀心にならせて頂く為の、前提とも言う修行があるという事を説いた。私自身それに気付かせて頂いた。負うた子にでも教えられるという。本当に又教えられるという。どういう中からでも、本当な事を分からせて頂こうという願いがないと迂闊になりますけれどね。
昨日四国の川上さんから手紙が来た。分厚い手紙である。もうそれは大変におかげを頂いておる。モヤシですねお野菜の。モヤシを作っておられる。もうそのおかげを受けておられる事がずっと、いろいろ細やかに書いてございますがね。私ぐらいな者の信心で、お願いと言や電話でお願いをするぐらいな事で、神様に対する本当のお礼の信心も出来んのにです。このようなおかげを頂いて勿体ない。そこでです親先生お礼の印に今日から、こういう修行をさせて頂きますから、お取次下さいと書いてある事がですね。
「これからは人の悪口を言わず。人の揚げ足を取らず。自分の足元をしっかり見つめて、おおらかな人間になりたいと誓います」という事が書いてある。私はこれを読ませて頂いた瞬間、又は上野先生が話しておる、その和賀心になろうと一生懸命精進するという事を、それでいいです。けれどもとてもそれは、大変な骨が折れるという事です。だからそういう和賀心にならせて頂こうという、前提の修行としてですね。人の悪口は絶対言わんという修行をさせて頂いたらいいです。
人の足元どん揚げ足ども取るような事は、絶対しないと言う修行をさせて頂いたら良いです。そしてですそれが悪口を言わんですむ、人の揚げ足を取らんですむほどしの、豊かな心というものがまず頂けるところから、和賀心を目指したら、これはただ和賀心和賀心を先に出すことよりかこれは見易い。和賀心を頂く事の為の修行がこれだという風に、私は昨日思うたです。
和賀心にならせて下さい、和賀心にならせて下さいという事に精進し、努めるという前にです。和賀心にならせて頂く事の為にです。こういう修行もさせて頂きますという修行をね。人の悪口をいう事は絶対致しません。人の揚げ足ども取るような事は致しません。そして、おおらかな心の豊かな心の私にならせて頂きたいという、そういうこの修行は、もう絶対和賀心を頂く為の前提の修行です。これは和賀心にならせて頂く、一つの早道とでも言うですか。和賀心にならせて頂く今迄よりも見易い道が開けてきた。
これは合楽でこのように、和賀心和賀心と言うておるのであるから。その和賀心和賀心と言う前に、まず人の悪口は、金輪際言わないぞ。人の揚げ足なんかは絶対取らないぞと。それがもし見えたら、自分自身の手元のところにです。自分自身の心というものを、本気で見極め見詰めさせて頂いて、言わん修行、思わん修行をです、まず先にさせて頂く。そこから、和賀心を願って行くという。
和賀心を頂くところの前提の修行というものがです。私は昨夜の御祈念に、この事を、みなさんに聞いてもらいながら、私自身、もう今夜からは人の悪口を言うまい。今夜からは、人の揚げ足を取るような事はするまいと、心にそれこそ、川上さんじゃないけれども、誓わせて頂いた。だから私、私が人の悪口を言う時には、ほら親先生、親先生ち言うてから、注意して下さいと言うて、昨日言うた事でしたけれどね。
お互いがです。そんなら、合楽の人達全部がです。人の悪口でも揚げ足でも取りよる時に、ほらほら○○さんとお互いがそれをね、言うて貰えれる信心仲間を作ってです。和賀心を頂く前の前提の修行として、こういう素晴らしい修行に取り組んだらです。私の心の中に和賀心にいよいよ向かっていく。上野の先生が昨日説いておるように、難しい事ではなくなってくるのではないかと思うです。これは昨日から実行しておる事ですから、まだハッキリした事は、出てきていない。けれども確かにこれがです。
和賀心の前提になる修行のように思うのです。皆さんも早速、今日からその事を実行して行かれる。信心して徳を受けて身凌ぎをと言うことはです。そういう修行をさせて頂きながら、おおらかな豊かな心を頂かせてもろうて、その上に尚且つ、生神金光大神天地金乃神一心ニ願い、おかげは和賀心にありという、和賀心を願わせて頂いて行くという事が、徳を受け身凌ぎが出来るようなおかげが受けられる。そういう道に出る事が出来ると私は信じます。そういうおかげを頂いて初めてです。
和賀心を自分の周囲に広げていくところのおかげ。私も最近宗教革命といった様な、これは烈しい言葉のようですけれども。金光教で言う宗教革命というのは、実に静かな静かな、言うなら、静かなブームが起らなければならんのです。人を悪く言わんのですから。○○宗の揚げ足なんか取らんのですから。これはそんなら、対人関係の場合でも同じことです。ですから自分の心の中に、じっとそのおおらかな心、又はそれに繋がるところの和賀心が。広がっていく事を喜ばして頂くという信心。
そこにはです、教祖が天地金乃神様とのお約束の元にです。お約束になっておられるおかげが、必ず伴うてくるという事です。ですからやはり宗教革命でしょう。ただ自分の心に悟りを開いて、自分自身が助かるというだけでもなからなければ、ただ拝んで参って、どうぞどうぞと言うて、お願いをする信心からです。脱却して金光教という信心が生れた。それを合楽ではいち早くそこに気付かせて頂いて、それに取り組んで修行させて頂けるという事が、私は有難いと思うですね。
どうぞ。